momo_moga’s blog

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後回し

人間いくつまで後回しにして生きていけるものか?

 

僕も重要なことを全部後回しにしながら生きてきたら勝手にこの歳になっています。

 

今後ももっと「この歳」になっていくんでしょう。

 

一生、後回しにしながら、そのまま人生を終えてしまった人。

 

有史以来、いったい何億人いることでしょうね。

 

数えきれないほど、いたんじゃないかと推測しますし、今も居続けているのでしょう。

 

僕も立派にその一人となっていますし、このままいってもその一人となるんでしょう。

 

仕事でダメ出しされることがあると、やっぱり自分は「きちんとした仕事」が出来ないんだなと痛感しますし、未だにできない訳です。

 

「きちんとした仕事」ができることが大人の条件(のひとつ)だと勝手に仮定すれば、未だ自分は半人前だと言われても反論のしようもない。

 

きちんとした仕事、責任ある仕事、

 

やっぱりお客さん相手でも、仕事仲間でも、「こいつに任せたら(ある程度は)大丈夫」って思ってもらえないことには始まらない。

 

その要素が、僕には少ないことを痛感します。

 

「こいつにやらせて大丈夫かな?」ってなってるんだと思います。周りが。

 

これではいつまでたっても任せられることはない。

 

しまいには老害扱いされることでしょう。

 

やっぱり、責任を負いたくないっていう気持ちでずっと生きてきたから、こうなってしまっているのか。

 

まぁこのレベルの反省をいまさら本気でする気も正直あまり起きないんですがね。。

 

それが若い頃との違いで、楽になる面でもあるし、周りからも「その程度」として扱われる要因であるのかも知れないです。

 

諦めちゃってる大人っていうのか。

 

確かに高校生くらいの時は嫌悪していた気もします。

 

けど、実際には既に賞味期限が切れている可能性すらある、この身を、それでも生き永らえさせたいと思うほどにはまだ執着のあるこの身で、生きている訳ですし、生きている訳です。

 

さすがに今すぐ自死したいとまでは思わない。

 

見苦しかろうとも。老いぼれ、醜態を晒していると思われようとも。

 

まぁ思ってくるのは自分より若い人なんでしょうが。

 

そんな奴らの目を気にする必要もそもそもないと言えばない。

 

そもそも若い人最近少ないし。

 

そういう意味では老害には生き易い社会なのかこの少子高齢化社会。

 

タイトルと話が逸れているんですが、

 

いつかいつかと思っておじさんになっていて、いつかいつかと思っておじいさんになっているとしたら、その時いったいどんな後悔が去来することでしょうね。。

 

だから安易にお金でできることはやっちゃったりしています。

 

イベントいったり、遠出したり。まぁそこら辺なんですが。

 

行動範囲が職場と家の往復のみだった以前からすると、まぁ変わったと言えば変わりました。

 

でも、旅行するにしてもライブいくにしても、結局チケットなりを手配してしまえば簡単な訳なんですよね。

 

あなたのレベルでは飛行機にはお乗せ出来ませんとか、このライブにはご参加いただけませんとかある訳もなし。

 

券さえ取れれば平等に入場が許可されるわけです。

 

その意味でのハードルは低いと言える。

 

もっとも、座っちゃってる腰を上げるハードルがいかに高いかは骨身に沁みていますけども。

 

「その意味での」ハードルの低さに気づくまでに、そして気づいたとしても実際に行動に移す、その発想になるまでに、既におじさんとなっていました。

 

本来行くべき年齢層の若い頃はその発想すらなかったし、その気は一切起きなかった。

 

だけど、例えばここで働きたい、ここに入学したい、この人と付き合いたいなどは、あなたのレベルでは無理ですが当たり前な世界な訳ですよね。

 

そんな世界だって多々ある。

 

そんな本来若い頃は狙っていくべき世界への未練がほぼ完全に断たれたところにきたが故に、もしかしたら必然的に券を取ったらいけるという行為が補償として、自分の中で顕在化、重要になってきたのかも知れない。

 

まぁよくわかりませんが。

 

ひとつは、まだ体が多少動くうちに行けるとこには行っとこうみたいな発想がわりとあることは確かです。

 

足腰立たなくなってからじゃ遅いので。

 

ただ究極言えば、みんないずれは足腰立たなくなるわけですよね。

 

その時、若い頃存分に楽しんでいたなら、後悔しないものなのか?

 

結果、まだまだあちこち行きたい、の気持ちがなくなっていなければ、フラストレーションを感じることには変わりないのか。

 

若い頃あちこち言っていたが故に、それが出来なくなった葛藤がより大きくなるといった可能性だって?

 

あるいはべたに「やっていなかった後悔」が一番大きいものなのか。

 

どちらにしれも、同じ一人の人間が、違うシナリオで複数回生きて、最後を経験して比較するというのでもない限り、事実はわかりようがないし、結局なにを言ったところで推測の域を出ないのではないでしょうか。

 

限りなく本当っぽかったとしても、「推測」なことに変わりはないのではないでしょうか。

 

そして、実際一人の人間が複数回生きなおして確認はできない訳ですから。

 

全てもっともらしく聞こえますが、結局ただの一意見以上になりようがないし、全部嘘だとも言えるし、全部どうでもいいとさえ。

 

もちろん、死期を迎えた誰か特定の個人に対して尋ねることはできるし、答えももらえるでしょうし、「死ぬ間際に後悔すること」的なものを集めた本もいくつもあります。

 

でもそれはあくまで「その人」の話であって自分が実際どうなるかなんてわかったもんじゃないし、わかりようがない。

 

やらなかった後悔をするのかも知れないし、しないのかも知れない。

 

色々やったせいで、かえって後悔するのかも知れない。

 

わからないです。

 

やれるとしたら、「自分はこんなことで後悔しそうだ」という予測を立てて、それを回避するように行動するくらいでしょうかね?

 

それが当たってくれればいいですけどね。