momo_moga’s blog

ツイッターにも書けるような事をブログに書く所

猫宮ひなた

www.youtube.com

 

この感じに触れるのひさしぶりな気がするなー

 

自分が漁ってないだけかもしれませんが。

 

Vtuberが飛ぶ鳥を落とす勢い気味で、参入が急増しておりますが。

 

このVtuberさんが個人的に最高で、まだ開始2週間で4本しか動画投稿ないのに、登録者数15万人以上という。

 

いかにVtuberがブームになっているかわかる。

 

最近はプロも、それこそ現役アイドルとか、セミプロなのか素人ではなさそうな、色んな普通にルックスのいいユーチューバーが増殖して、まぁそういう類の人は厳密には「ユーチューバー」ではないかもですが、

 

3次元でもそういう女性を拝めるにもかかわらず、Vtuberが光の速さで登録者数あっさり抜き去るのおもしろすぎる。

 

僕自身Vtuber見まくってますがこのよさみなんなんでしょうねー

 

2次元がいいとかあんま言う気もないし、30代はいってからは以前に比べると2次元より3次元側に流れ込んできた(戻ってきた?)自分もいたんですが、

 

特にニコ動をほぼ見なくなってから、「ユーチューバー」が基本顔出しの本人がやるもので、どんどん若くなってバカやってみた系の動画も増えてきて、

 

そういうDQN?ヤンキー?的なテイストと自分が真逆の人生歩んできてる(陰キャ)から、正直あまり受け付けず、はじめあまり見ていなかったんですが、そもそもどこの誰とも知らない人間を見るの抵抗あったし、そこは2次元に行ってたせいかわかりませんが、

 

でもYouTube開くとあふれてるし、YouTubeしか見なくなったし、徐々に見ていくうちに抵抗も薄れて、色んな過激系おバカ系ユーチューバーや世代が全然違うような動画を見ていて、おもしろく見ているつもりでいましたが(実際おもしろんですけどね)

 

Vtuberのこのジャンル、ある意味ニコ動に近いこのテイストの動画が、考えてみればなかったんだなと。

 

これがないから、(しかなたく?)通常のユーチューバーの動画を見ていたのかも知れなかったなと、ふと思ってしまった。

 

ニコ動もコメントが売りというか本体でしたが、そのコメントが鬱陶しく感じてきてしまったのと、プレ垢解除したらあまりに視聴環境が悪くなってしまって、UIも永久に使いづらいし、

 

YouTubeに流れていました。

 

YouTubeは顔出しが当たり前で、しまいには芸能人まで参入し始めて、飽和してきてるところに、

 

カウンターとしてなのか、このジャンルがなかったところに(正確には前からいたようですがそれこそ1年以上前から)、潜在的に大きなニーズがあって、ニコ動にはあるのかでもニコ動たこつぼ化してるよねで、難民化しかけてたとこに、Vtuberが一気にそこを供給している印象です。

 

ただの根も葉もない印象。ニコ動が先細ってるのかも知りませんが。

 

とにかく、撮って出しみたいなネタユーチューバーが多い中、2次元でがっちり編集してくれるVtuberは素晴らしい。推せる。特にこの猫宮ひなたさんはクオリティ高い。

 

たぶんYouTubeは収益化も前提だからコンスタントに動画投稿しなきゃいけない=編集に時間かけすぎるのは不利ってのがあるのかも知れない。わかりませぬが。

 

後悔

 

 

いまこの本を(ちょっと途中ブランクありながらも)ちょいちょい読み進めているんですが。

 

上巻はわりとさくっと読み終わって、下巻に入ってちょい止まり気味ではありましたが、

 

この本は人間の「盲点」とか、考え方のくせや傾向みたいなものがどのように形成されるのか、色んな実験を紹介しながら解説してる本です。

 

題材としては心理学の本にありがちなんですが、違いは「科学的()」といいますか、脳科学まではいかないかもですが、理系チックな感じです。

 

自己啓発本や心理学の類の本を読むのが趣味、というか半ば習慣化していて(もっとも最近かなり読むペース落ちてますが)

 

あれこれ読んできましたが、この本は「そういうことだったのか」が本当にたくさんありました。

 

なぜ自分が頭ではわかってるのに不合理な行動ばかり繰り返してしまうのか、あとから反省したり後悔しても結局またやってしまう、わかっていても勇気がでない、そっちがいいと思えない、

 

そういったことの原因が解説してあって、これまで読んだ他の本で書かれていた内容も、漠然としていた内容、掘り下げ切れていない内容がかなりかみ砕いて腑に落ちた印象です。

 

詳しく解説し始めるともう一度読み直さないと無理なレベルなので、

ひとことでいうと、人間の脳には速い思考(=自動的な思考、常駐アプリタイプで起動中(起きてる間)は常に起動し続けていて、自分の意志では止められない、力はほとんど必要とせず動き続ける)と、

 

遅い思考(「意思力」がないと起動できない、非常に重いアプリ 普通「思考」というとこっちを指すけど、ぶっちゃけ使っているつもりでいるけど大抵の場合使ってないし使えない 理由は使うのにパワーがいる、頭使うって疲れるのはこの為、、なので使ってるふりはしてるけど実際は余裕あるときとか、普段から訓練してて習慣化できてる人じゃないとうまく使えない) があると。

 

ほんで、僕らが思う意識とか、思考とかは「遅い思考」を指すと思うけど、実査にはほぼ使ってないと。

 

僕らは実はほとんどの判断を、実際は「速い思考」で行っていて、というのもそもそも自分で止められない常駐タイプの思考なのと、ほとんど力を必要とせず、言うなれば反射的に判断できるものだから、、

 

で、しかも大半は実際それでなんとかなっていると。

 

実際我々はいちおうここまで生き永らえてはいますから実際、、

 

そして、ほんとにやばい事態とか、重大事態に行き当たった際に発動する「遅い思考」、これは全体を勘案して、長期的な視点で、比較対象しながらじっくり考えるものですが、これにはものすごいパワーがいると。

 

CPUでいったら100パーになってる状態でしょうね、クーラーのファンもフル稼働。

 

それでいろんなものを比較して頑張って決めようとしますけど、結局、そもそも出だしで「速い思考」の影響(常駐なので)を不可避的に受けており、受けざるを得ず、そのため「遅い思考」で頑張って考えても、考えてるつもりでも、結局速い思考がつかさどる感情や、好き嫌いのバイアスからは逃れられない、完全に逃れることがいかに非常に難しいか、

 

こういった内容が肝になっています。

 

というところで長くなったので次へ。

 

後回し

人間いくつまで後回しにして生きていけるものか?

 

僕も重要なことを全部後回しにしながら生きてきたら勝手にこの歳になっています。

 

今後ももっと「この歳」になっていくんでしょう。

 

一生、後回しにしながら、そのまま人生を終えてしまった人。

 

有史以来、いったい何億人いることでしょうね。

 

数えきれないほど、いたんじゃないかと推測しますし、今も居続けているのでしょう。

 

僕も立派にその一人となっていますし、このままいってもその一人となるんでしょう。

 

仕事でダメ出しされることがあると、やっぱり自分は「きちんとした仕事」が出来ないんだなと痛感しますし、未だにできない訳です。

 

「きちんとした仕事」ができることが大人の条件(のひとつ)だと勝手に仮定すれば、未だ自分は半人前だと言われても反論のしようもない。

 

きちんとした仕事、責任ある仕事、

 

やっぱりお客さん相手でも、仕事仲間でも、「こいつに任せたら(ある程度は)大丈夫」って思ってもらえないことには始まらない。

 

その要素が、僕には少ないことを痛感します。

 

「こいつにやらせて大丈夫かな?」ってなってるんだと思います。周りが。

 

これではいつまでたっても任せられることはない。

 

しまいには老害扱いされることでしょう。

 

やっぱり、責任を負いたくないっていう気持ちでずっと生きてきたから、こうなってしまっているのか。

 

まぁこのレベルの反省をいまさら本気でする気も正直あまり起きないんですがね。。

 

それが若い頃との違いで、楽になる面でもあるし、周りからも「その程度」として扱われる要因であるのかも知れないです。

 

諦めちゃってる大人っていうのか。

 

確かに高校生くらいの時は嫌悪していた気もします。

 

けど、実際には既に賞味期限が切れている可能性すらある、この身を、それでも生き永らえさせたいと思うほどにはまだ執着のあるこの身で、生きている訳ですし、生きている訳です。

 

さすがに今すぐ自死したいとまでは思わない。

 

見苦しかろうとも。老いぼれ、醜態を晒していると思われようとも。

 

まぁ思ってくるのは自分より若い人なんでしょうが。

 

そんな奴らの目を気にする必要もそもそもないと言えばない。

 

そもそも若い人最近少ないし。

 

そういう意味では老害には生き易い社会なのかこの少子高齢化社会。

 

タイトルと話が逸れているんですが、

 

いつかいつかと思っておじさんになっていて、いつかいつかと思っておじいさんになっているとしたら、その時いったいどんな後悔が去来することでしょうね。。

 

だから安易にお金でできることはやっちゃったりしています。

 

イベントいったり、遠出したり。まぁそこら辺なんですが。

 

行動範囲が職場と家の往復のみだった以前からすると、まぁ変わったと言えば変わりました。

 

でも、旅行するにしてもライブいくにしても、結局チケットなりを手配してしまえば簡単な訳なんですよね。

 

あなたのレベルでは飛行機にはお乗せ出来ませんとか、このライブにはご参加いただけませんとかある訳もなし。

 

券さえ取れれば平等に入場が許可されるわけです。

 

その意味でのハードルは低いと言える。

 

もっとも、座っちゃってる腰を上げるハードルがいかに高いかは骨身に沁みていますけども。

 

「その意味での」ハードルの低さに気づくまでに、そして気づいたとしても実際に行動に移す、その発想になるまでに、既におじさんとなっていました。

 

本来行くべき年齢層の若い頃はその発想すらなかったし、その気は一切起きなかった。

 

だけど、例えばここで働きたい、ここに入学したい、この人と付き合いたいなどは、あなたのレベルでは無理ですが当たり前な世界な訳ですよね。

 

そんな世界だって多々ある。

 

そんな本来若い頃は狙っていくべき世界への未練がほぼ完全に断たれたところにきたが故に、もしかしたら必然的に券を取ったらいけるという行為が補償として、自分の中で顕在化、重要になってきたのかも知れない。

 

まぁよくわかりませんが。

 

ひとつは、まだ体が多少動くうちに行けるとこには行っとこうみたいな発想がわりとあることは確かです。

 

足腰立たなくなってからじゃ遅いので。

 

ただ究極言えば、みんないずれは足腰立たなくなるわけですよね。

 

その時、若い頃存分に楽しんでいたなら、後悔しないものなのか?

 

結果、まだまだあちこち行きたい、の気持ちがなくなっていなければ、フラストレーションを感じることには変わりないのか。

 

若い頃あちこち言っていたが故に、それが出来なくなった葛藤がより大きくなるといった可能性だって?

 

あるいはべたに「やっていなかった後悔」が一番大きいものなのか。

 

どちらにしれも、同じ一人の人間が、違うシナリオで複数回生きて、最後を経験して比較するというのでもない限り、事実はわかりようがないし、結局なにを言ったところで推測の域を出ないのではないでしょうか。

 

限りなく本当っぽかったとしても、「推測」なことに変わりはないのではないでしょうか。

 

そして、実際一人の人間が複数回生きなおして確認はできない訳ですから。

 

全てもっともらしく聞こえますが、結局ただの一意見以上になりようがないし、全部嘘だとも言えるし、全部どうでもいいとさえ。

 

もちろん、死期を迎えた誰か特定の個人に対して尋ねることはできるし、答えももらえるでしょうし、「死ぬ間際に後悔すること」的なものを集めた本もいくつもあります。

 

でもそれはあくまで「その人」の話であって自分が実際どうなるかなんてわかったもんじゃないし、わかりようがない。

 

やらなかった後悔をするのかも知れないし、しないのかも知れない。

 

色々やったせいで、かえって後悔するのかも知れない。

 

わからないです。

 

やれるとしたら、「自分はこんなことで後悔しそうだ」という予測を立てて、それを回避するように行動するくらいでしょうかね?

 

それが当たってくれればいいですけどね。

怒り

怒りはやっかいですね、、

 

怒りは己を蝕む、滅ぼす、、すべての創造性を奪い、余裕を奪い、視野を狭くする、、

 

今日わりとひさびさ1年ぶりくらいにバイトできつめにダメだし受けてメンタルヘルスが悪化

 

引きずらないようにしようといまもしてるけど内心相当いかっているようです笑

 

多分急に怒られた理由はたぶん、スルーしちゃだめなところをスルーしてることろを見られた、ばれたからじゃないのかなーとか思ってますけど違うのかも知れないけど

 

100%悪い

 

もしくは進みが遅いと勘違いされたのか、まぁずっと僕は作業が遅いのでそれに関するフラストレーションがいま爆発したのか、

 

わかりませんが、

 

なのでこっちが怒るのは筋違いも甚だしいのにそれでも怒っている。

 

なんとかしろおれよ。

 

歳をとるほどに怒られる耐性がつくとかそういうことでもないようだ。そりゃそうか。

 

「歳を取る程に」を枕詞にした時点で甘えとしか受け取られないから言えないし言わないようにしている。だからブログに書きます。

 

怒りや悲しみなどのネガティブな感情は言ってみれば腹パンされたときとか、捻挫とか打撲した時みたいな感じで、腹痛みたいな感じで、

 

いますぐあっちいけといってどうなるものでもない。

 

ぜったいにある一定期間続くし、それを人の身でどうこうできる類のものではないわけです。

 

その一定期間は、どんなに不快だろうが不愉快だろうが耐えるよりほかない。我慢するより他ない。

 

それがいまです。

 

たとえ身から出た錆であろうがそれを制御できる脳ではないんですね。。

 

モルヒネでもあれば、もしくは完全に酩酊できる何かがあれば別でしょうけどね。

 

 

とてもいいMVを見つけた伊藤万理華

 

ほんと彼女はセンスほとばしってる、、ソロなっても分野分野で活躍できそうな気がします。

 

www.youtube.com

やっぱり

はてなブログの投稿と編集の速度が全然ちがう笑

 

ここが重いってどんだけのスペックだったんだって思われるでしょうが。

 

普段まじでほぼようつべ(その他配信サイトなど)しか見ないのでブラウジングに関してはストレス感じてなかったんですけど。

 

ここにわりとはっきりと恩恵を感じられています。

CPUを少しグレードアップ

あいかわらずマイPCは突如シャットダウン→再起動のループがちょくちょく起こっています。

 

ここ24時間は割と調子よくシャットダウンはしてないですけど。

 

調子いいなと思って油断してたら突如きますからね、、

 

そして一度シャットダウンするとそのまま何度も繰り返したり数分おきに来たり。

 

イベントビューワーとやらでみてもエラーコードが「0」つまり原因不明、、ハードウェア起因でのシャットダウンの場合は0となることが多いそうな。

 

温度を見ても30度台で熱でのシャットダウンではなさげ、念のためクーラー変えたけど即シャットダウン発生したし笑

 

メモリも変えたし、スロット側かと思って1本刺ししたりでも相変わらず。

 

もはやM/Bか電源しか、、

 

でもM/Bも一度変えてるんだよな変えてから結構経つけどね、、

 

変えたのも結局不調だったからなわけで。

 

こうなったら結局電源しかないorz

 

2万以上するなんなら自分のPCの中で一番高いパーツだったから疑いたくなかったけどさすがに経年かな気づいたら7年近く。

 

いまいったん調子いいけどまた酷くなって使えないレベルなら電源変えてみるしかないか、、

 

という状況で無駄に微妙にPCをスペックアップしてみました笑

 

CPUをG630TからG2020にしてメモリを無理に4ギガ増やして2×1、4×1の6ギガというイレギュラーな構成にw

 

デュアルチャンネルを華麗に無視していくスタイル。

 

しかもクロック数も1600と1333を混在させてます。

 

でも問題なく稼働中、そしてやはりデュアルチャンネルがなくなったことより単純にメモリが1.5倍になった恩恵をさすがに実感。

 

ブラウジングしかせずにほぼストレスはなかったものの若干のラグがあったり、ぶっちゃけはてなブログの編集画面(これ)がわりと重かった笑

 

けどCPUとメモリを上げたことで体感できるレベルでサクサクに。

 

入力中はいままでもそこまで重い自覚なかったけど今めっちゃ軽いせいでいままでは重かったんだなと後から実感しています。

 

最近メモリ高いって聞いてたけどほんとなんだね。以前の値段ちゃんと覚えてないけど、中古ならもっと安かった気がするけどな。

 

CPUとメモリ1枚で4000円程度の買い物でした。

 

わりと費用対効果は高かったなー。

 

使い方が使い方なだけに組んだ当初よりスペック落としたりしながら使ってきてるけど、ネットしかしない今の使い方なら壊れない限りまだまだ現役だな、、

 

でもゲーム一切無理だから対応したPCにしたい希望もあるけどね。

 

ただそれっぽく組んだとしてもどの程度ゲームするか未知数てかしないんだろうな多分、、

 

しないけどできるPCにしてはみたいな。

 

ファンレスで。いまいちばんスペックの高いファンレスビデオカードって何なんだろー。

肩の力が抜けてきた?

最近(ほんとわりとここ最近)になって、なんか自分に対する、あとは周り(人間一般に対するw)見方も変わってきて、

 

結局、自分は身勝手な人間だっただけなのではなかったのかと、思うようになった。

 

自分を守ろうとしたり、人付き合いが希薄で、苦手だったり、他人が怖かったり、

 

意識として、意識に上ってくる感情、感覚としては概ねそういったもので、これまでの半生感じ続けて生きてきたわけですが、

 

表面的に感じている感覚、感情の裏には、どういった理由が潜んでいたのか、

 

たとえば周りの影響とか、親の影響とか、体が貧弱なこととかなんだろ、なんかのトラウマとかかなぁ、

 

そういった感じで考えていて、要は周りからの悪影響、もしくは被害

 

そこに大前提としてあったのは当然、自分は善良である、善玉であるという感覚

 

それを疑うということは当然しない訳です。

 

まぁ、そもそも他人の感覚に完全に同調したこともなく、そもそもできない人の身にあって、

 

自分が「客観的に見て」パラメーター的に、他者に比べて善良のステが良いなどと比較したわけでもないし、できる訳もないし

 

身勝手さのステが高いか低いかも比較した訳もできる訳もやはりなく

 

大抵の場合対人関係に於いてなんていうか、僕の場合はいじられる側というか、いじられるで済めばいいけどまぁわりと深刻めにディスられることもあったりなかったりする

 

まぁ理由のひとつは自分が攻める側にほぼ決して回らない、というか回るのを拒否して生きてきてもいたから最早回り方もわからんというのもあると思っている。

 

要はたまにはうまく反撃というか、押し返さないと一方的にやられがちという話。

 

処世術としても作法としても、そういったことが多少はできた方がいい、できるべきとすら言えるのかも知れない。相手を加害者にしない為にも。まぁそこまで考える必要はないけど。

 

話が逸れたけど、そんな訳でやられ側に回ることが多い自分だけに、

 

なんていうか、被害者側は善良、非はないみたいな理屈じゃないけど、

 

なんていうか加害者側には当然露見している身勝手さとか、傲慢さのようなもの、それを他者に見ることは日常で、見分けることに長けているとさえ言える習性を身に着けてて、

 

それなのに、それ故に、自分の中にそういった面があること、本来当たり前すぎるほどに当たり前なその事実、何故なら単なる同じいち人間なのだから

 

そこに気づくのが遅れたし、気づかないままに来たのかも知れない。

 

いや、もちろん常に自省的に考えるようにはしてたつもりだったんだけどさ。

 

加害者側にいま立ってる人と被害者側にいま立ってる人、それってその都度の立場上だったり成り行きかなにかで決まっているものだろうけど、

 

表面的にはもちろん被害者側が身勝手さを行動には出しづらい。

 

従順にならざるを得ない。

 

けど立場が変われば逆転するかもしれない、であるからしてそもそも身勝手さのパラメーターはその両者でどっちが高いかなんて、その一回的な関係性に置かれているという理由、その状況を見ただけでは測れない、のかも知れない笑

 

もちろんよっぽどのパワハラ系はそもそもずば抜けて傲慢なのかもだけど。

 

時々はやいとこカウンセリング受けてくれないと周りが死にかけてるって人がいる、、

 

何言ってたか忘れてきたけど、つまり、自分は身勝手さポイントが人より低いわけではなかった、なんならむしろ人より高いまであるという、まぁある意味当たり前かも知れないことに、最近腹におちて気づいてきた

 

頭で理解してるだけってよりは、納得度も上がってきたってことです。多分。

 

なので、これまで対人に於いて感じてきた様々な緊張、他者が苦手という感情、

 

そういったものって、その原因が、ほんと、自分にとっては意外に感じるんですが、自分の身勝手に起因してたんじゃないか、って説が自分の中に芽生えています。

 

要は自分の自己中心性、嫌な言葉で言えば自分の幼稚さ、「幼稚」は大人面したおとながディスるとき使うからイライラする言葉ですが、

 

まぁ幼稚はやめるにしても、自己中心的な性格が強いからこそ、対人恐怖を感じている、そういう繋がりを最近感じています。

 

一見繋がらないから、なんで?って話なんですけど、

 

なんかうまく説明、言語化ができづらいんですが、

 

要するに自分の思うとおりに世界があって欲しい、周りに接して欲しい、自分の思う通りの自分でありたい、

 

こういった欲求が全て身勝手さからくる、と仮に仮定して、

 

その欲求、言い換えれば理想とも言えるかも、ポジティブに捉えれば目標とも、

 

自分の人生に下心がもちろんやっぱりあるから捨てきれない、

 

捨てきれないからこそ、身勝手さが残るからこそ、

 

それが意識表面にまで投影された結果としての対人恐怖、人付き合いの苦手感、そういったものが現れてくる、そんな意見。

 

自分の思う通りに動いて欲しい、だけど動いてくれないかも知れない(当然他人は制御できないから動いてくれるはずがない)、動いてくれないであろう、そして、世界から自分に対するフィードバックは自分にとってネガティブなものであろう、

 

そういった予測、予感はやっぱり真を付いているから内心によぎる、意識しなくても

 

だからこそそれが恐怖となって現れてくる

 

自分が傷つくかも知れない予感になる。欲求が身勝手に大きいからこそ、傷つきも大きくなる

 

そんなところかなぁって。

 

自分に対して悪い意味ででも諦めが強くなってきて、最早セルフネグレクトかよって所に行きつつある気がするけど、

 

結果として要求、つまり身勝手さが少し減って、その結果少し周りとの関係が楽に思えるのかな、って

 

端的に言うと自分に対して無礼な態度を取られた際、そして周囲から自分に対するネガティブレスポンスが来た際、傷つきが多少弱まった、あるいは周りに自分をぞんざいに扱うことを許せるようになった、そんな感じもします。

 

自分はこんなもんなんだって、最早ある意味常時思っちゃってるからなのか。

 

単に、周囲より年上になってきてそうゆう機会が減っただけかも知れません。それだとこれまでの話なんだったんだってことですが笑