momo_moga’s blog

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肩の力が抜けてきた?

最近(ほんとわりとここ最近)になって、なんか自分に対する、あとは周り(人間一般に対するw)見方も変わってきて、

 

結局、自分は身勝手な人間だっただけなのではなかったのかと、思うようになった。

 

自分を守ろうとしたり、人付き合いが希薄で、苦手だったり、他人が怖かったり、

 

意識として、意識に上ってくる感情、感覚としては概ねそういったもので、これまでの半生感じ続けて生きてきたわけですが、

 

表面的に感じている感覚、感情の裏には、どういった理由が潜んでいたのか、

 

たとえば周りの影響とか、親の影響とか、体が貧弱なこととかなんだろ、なんかのトラウマとかかなぁ、

 

そういった感じで考えていて、要は周りからの悪影響、もしくは被害

 

そこに大前提としてあったのは当然、自分は善良である、善玉であるという感覚

 

それを疑うということは当然しない訳です。

 

まぁ、そもそも他人の感覚に完全に同調したこともなく、そもそもできない人の身にあって、

 

自分が「客観的に見て」パラメーター的に、他者に比べて善良のステが良いなどと比較したわけでもないし、できる訳もないし

 

身勝手さのステが高いか低いかも比較した訳もできる訳もやはりなく

 

大抵の場合対人関係に於いてなんていうか、僕の場合はいじられる側というか、いじられるで済めばいいけどまぁわりと深刻めにディスられることもあったりなかったりする

 

まぁ理由のひとつは自分が攻める側にほぼ決して回らない、というか回るのを拒否して生きてきてもいたから最早回り方もわからんというのもあると思っている。

 

要はたまにはうまく反撃というか、押し返さないと一方的にやられがちという話。

 

処世術としても作法としても、そういったことが多少はできた方がいい、できるべきとすら言えるのかも知れない。相手を加害者にしない為にも。まぁそこまで考える必要はないけど。

 

話が逸れたけど、そんな訳でやられ側に回ることが多い自分だけに、

 

なんていうか、被害者側は善良、非はないみたいな理屈じゃないけど、

 

なんていうか加害者側には当然露見している身勝手さとか、傲慢さのようなもの、それを他者に見ることは日常で、見分けることに長けているとさえ言える習性を身に着けてて、

 

それなのに、それ故に、自分の中にそういった面があること、本来当たり前すぎるほどに当たり前なその事実、何故なら単なる同じいち人間なのだから

 

そこに気づくのが遅れたし、気づかないままに来たのかも知れない。

 

いや、もちろん常に自省的に考えるようにはしてたつもりだったんだけどさ。

 

加害者側にいま立ってる人と被害者側にいま立ってる人、それってその都度の立場上だったり成り行きかなにかで決まっているものだろうけど、

 

表面的にはもちろん被害者側が身勝手さを行動には出しづらい。

 

従順にならざるを得ない。

 

けど立場が変われば逆転するかもしれない、であるからしてそもそも身勝手さのパラメーターはその両者でどっちが高いかなんて、その一回的な関係性に置かれているという理由、その状況を見ただけでは測れない、のかも知れない笑

 

もちろんよっぽどのパワハラ系はそもそもずば抜けて傲慢なのかもだけど。

 

時々はやいとこカウンセリング受けてくれないと周りが死にかけてるって人がいる、、

 

何言ってたか忘れてきたけど、つまり、自分は身勝手さポイントが人より低いわけではなかった、なんならむしろ人より高いまであるという、まぁある意味当たり前かも知れないことに、最近腹におちて気づいてきた

 

頭で理解してるだけってよりは、納得度も上がってきたってことです。多分。

 

なので、これまで対人に於いて感じてきた様々な緊張、他者が苦手という感情、

 

そういったものって、その原因が、ほんと、自分にとっては意外に感じるんですが、自分の身勝手に起因してたんじゃないか、って説が自分の中に芽生えています。

 

要は自分の自己中心性、嫌な言葉で言えば自分の幼稚さ、「幼稚」は大人面したおとながディスるとき使うからイライラする言葉ですが、

 

まぁ幼稚はやめるにしても、自己中心的な性格が強いからこそ、対人恐怖を感じている、そういう繋がりを最近感じています。

 

一見繋がらないから、なんで?って話なんですけど、

 

なんかうまく説明、言語化ができづらいんですが、

 

要するに自分の思うとおりに世界があって欲しい、周りに接して欲しい、自分の思う通りの自分でありたい、

 

こういった欲求が全て身勝手さからくる、と仮に仮定して、

 

その欲求、言い換えれば理想とも言えるかも、ポジティブに捉えれば目標とも、

 

自分の人生に下心がもちろんやっぱりあるから捨てきれない、

 

捨てきれないからこそ、身勝手さが残るからこそ、

 

それが意識表面にまで投影された結果としての対人恐怖、人付き合いの苦手感、そういったものが現れてくる、そんな意見。

 

自分の思う通りに動いて欲しい、だけど動いてくれないかも知れない(当然他人は制御できないから動いてくれるはずがない)、動いてくれないであろう、そして、世界から自分に対するフィードバックは自分にとってネガティブなものであろう、

 

そういった予測、予感はやっぱり真を付いているから内心によぎる、意識しなくても

 

だからこそそれが恐怖となって現れてくる

 

自分が傷つくかも知れない予感になる。欲求が身勝手に大きいからこそ、傷つきも大きくなる

 

そんなところかなぁって。

 

自分に対して悪い意味ででも諦めが強くなってきて、最早セルフネグレクトかよって所に行きつつある気がするけど、

 

結果として要求、つまり身勝手さが少し減って、その結果少し周りとの関係が楽に思えるのかな、って

 

端的に言うと自分に対して無礼な態度を取られた際、そして周囲から自分に対するネガティブレスポンスが来た際、傷つきが多少弱まった、あるいは周りに自分をぞんざいに扱うことを許せるようになった、そんな感じもします。

 

自分はこんなもんなんだって、最早ある意味常時思っちゃってるからなのか。

 

単に、周囲より年上になってきてそうゆう機会が減っただけかも知れません。それだとこれまでの話なんだったんだってことですが笑